遥実の手帳

フランス在住の筆者の(主に映画についての)エッセイ。

寝ても覚めても -フランスの地方映画館を満席にした映画-

寝ても覚めても

 

 新年明けての初映画は自分にとっての初の濱口竜介作品、「寝ても覚めても」(めっちゃ期待してました)。

 ヨーロッパの青い寒空の下、ーヴィヴァルディの「冬」の急ぐようなリズムをイメージしつつ(https://www.youtube.com/watch?v=OLClkB9cnHY)ー 息を白くしながら暖を求めて映画館に駆け込んだ。年末年始に急に寒さが立つのはこの惑星の北半球共通の現象のようだ。

 自分がこの作品を鑑賞した映画館は、フランスの地方の映画館ながら奇しくも日本映画が3本も同時に上映されており(万引き家族宮崎駿のドキュメンタリー、そして当作品)、意外にも映画館内は人でごった返していて芋洗い状態だった。日本映画は海外で全く受けないと凡庸な魂たちに叫ばれがちだが、どうやらフランスの人たちは日本映画に興味があるようだ。

 上映スクリーンの扉が開かれると、その前で固まっていた群衆には気を遣わずに、一番いい席を確保するために我先に中へとそそくさと駆け込み、ど真ん中の中心の席を無事確保。そして、息が落ち着いたところで客の入りを確認すると、何と満席ではないか。初週の土曜日とはいえ、フランスの地方映画館と日本の作家映画という掛け算の答えをどうやら私は間違っていたようである。満席の熱気の中、劇場内唯一の日本人という謎の自負で、どうかこの映画が退屈でないように、という責任感を勝手に感じていた。

 

 変な緊張感の中この映画を観ていたからあやふやな記憶しかないという言い訳をしつつ、この映画の印象を断片的にここに記す。

 

 まず、主役の朝子(ちなみに仏題はASAKO I&II)の顔が良い。この女優は今まで知らなかったが、顔が非常に能面的でペラっとしていてて、表情を如何様にも解釈できるC3POのような映画的な顔をしており、時折見せる表情が非常に良かった。次に、相方を演じた東出昌大の顔だが、私は好きではない。濱口の初商業映画という事もあり、商業の理論を押し付けられて客を呼べる彼を起用させられたのだろうか。もっとも彼に群がるファンがいることにも驚くが、兎に角疑問だ。顔という事で濱口の演出を観て思い出すのが、ブレッソン映画における顔である。

 ブレッソンの演技演出における顔とは、簡単に言うと表情の「不在」なのだ。役者の表面上に現れる人称性の不在がかえって悲劇の中に居る人物の内面に観客を入り込ませるのがブレッソンなら、濱口の場合は人物の中に安易に自分を投影し同一化させるの感情劇を拒む。ブレッソン求心的なら、濱口の場合は遠心的。例えば、「二人の男の間に揺れる女」と言う劇性への感情移入をこの映画は濱口流のリアリズムで拒むのだ。この映画は、一見するとフィクション的な寓意や要素(デパルマさん大好き双子 or ドッペルゲンガー、理想と現実に揺れるボヴァリー夫人、震災を使って描く人情劇 etc…)に満ちているのだが見事にそこに安易に落ち込まない。ただし、この映画の弱さはそこにある。様々な象徴(モチーフ)が劇中に出現するが、彼のリアリズムが象徴を象徴としてとらさせようとする意識が私には喚起させれなかった。何故ならば象徴とは、それをフィクションとして捉える時に意識に与えられるから。私の意識と感情は表面に留まり、象徴が持つ背景に入っていこうとはしなかった。そして、こういった虚構的要素は、観賞後に思考を整理しているときにあらためて頭に現れた。また、場所が持つ視覚的な差異や奥行きをこの映画は同じような理由のためにあえて利用していない。例えば大阪と東京の違いは視覚(日本の都市の変わり映えのしない景観のせいもあるだろうが)に与えられずに音=セリフ(大阪弁標準語)で表現されていた。この映画では、様々な要素の深層への浸透が堰き止めてられていて、全てが見かけの表面性に留まっている。

 ところで、この映画はすごく顔の映画だなぁ、と思ったのだけれど、自分の記憶の中では顔のクローズアップがなかったと覚えている。多分、一番人物に寄ってもバストサイズくらいだったのではないだろうか?それでも顔が(特に朝子の顔)印象に残るのは、濱口の演出の巧みさゆえなのだろう。

 

 この映画についてまだまだ色んなことを語れるのだろうけど、ここいらでキーボードの電源を落とすことにする。 

 

 最後に、劇的快楽のないこの映画を大衆はどのように受け止めるのだろう、と疑問に思った。

映画狂の友人たちに意見を聞くとみんな大絶賛していたのだけれど、上映終了後の映画館の雰囲気は、その意見を肯定するものではなかった。とはいえ、日本映画がこうやって海外にやって来るのは、非常に良いことだ。日本の作家映画が海外の人の心(少なくとも配給会社の人)を打つ事が出来るなら、それだけで心躍る気分になる。万歳三唱!

 

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                           ★★☆☆

「万引き家族」、年末最後の映画鑑賞。

 感謝。まずはこの一言をこの映画に捧げたい。

現代日本映画砂漠における一つの希望、僥倖、稀有、そして金の棕櫚(パルムドール)を我々にもたらしたこの映画の奇跡、そしてまた、自分の偏狭な映画的理解をひっくり返してもらえたことに感謝。

普段の私の映画の判断基準フィルターの一つは、一人のシネアストのエゴイスティックな芸術的感性、いかにしてそれが映画の「枠」として表現されているかと言う演出(ミゾンセーヌ)のフォルマリスト的観点なのだが、この映画にはむしろ己を見てと言わんばかりの芸術家が持つデモンストレーション的エゴイズムが、三つ星料理店の一品にケチャップをブチまけるかのような、また、ラーメンのスープをすする前から胡椒をその上にかけるような野暮な行為だということを私に教えてくれた。一瞥して容易に識別可能な映画作家の個々の様式(スタイル)は、あまりにも目立ちすぎるために画面上に霞のように覆い被さり、ただ「」の面白さだけを誇張する。テレンス・マリックがまさにこれの凡例だ。端的に言って、作家映画の大半は演出過多なのだ。この映画における一見すると演出の不在にも思えるナチュラリスト的態度は、画面上に現れる俳優たちの生き生きとした佇まいを濁しているそれらの事実を私に伝えてくれた。安藤サクラのふっくらした柔らかな身体から出る優しさ、リリー・フランキーの照れ顔、子役二人のよちよちとした足どり、そして何より死神が生の返済期限を告げに来た事をその身をただレンズの前に晒すだけで表現した浜辺での樹木希林の顔、これらがただ是枝の映画装置の前にあった。ただ一つ、安藤サクラが佐々木みゆ演ずる《娘》の服を一斗缶で焼く際の、背景にいる他の俳優たちが不自然に動かないという人工性が目についてしまった。完璧なものほど瑕疵を探してしまうのは、幼い頃から叩き込まれた失敗をしてはいけない減点方式の教育のせいだろう。

 

この映画はとある貧困状況を描きながら、我々を我々の語句の貧困さに直面させる。劇中、リリー・フランキーはしきりに自分の名前を与えた祥太(城桧吏)に《父》と呼んでくれと照れながらせがむが、その言葉が発音されることは最後までなかった。リリー・フランキーは商店街の中でコロッケ片手に祥太に父ちゃんと言ってみろとけしかけるが、祥太は口ごもる。彼はその言葉を言いたくないのではない、言えないのだ。私たちの言葉では、彼らの関係を単に「父」と「子」で叙述できないという事を彼は直感的に知っているのだ。かつて日本語に今日意味するような「友達」が存在しなかったように、無縁社会ニッポンに生まれつつある新たな「縁」たちに直面する時、私たちの言葉はあまりにも無力だ。そして、映画だけが特権的に現実を素朴に捉えるだけでこの関係性を描けるのだ。確かに、冷たい言葉で言えば「保護者」とか「父兄」などの訳のわからない語句がある。しかし、この映画で描かれた「縁」にはどれも適切ではない。この映画の大人達は行政上は保護者ではないし、子供達との間には血縁もない。我々が簡単に言い表せらるような関係性は旧い時代と共に亡くなった。そして、他の絆のあり方をこの映画は提示した。

 

一つ疑問がある。万引き家族を日本の恥と評した人たちは実際に作品を観たのだろうか。まともな人間的感性を持ったニンゲンならそんな言葉は口に出てこないはずなので、きっと、彼らは観ていないか、我われの営みを理解しない遊星から来た物体なのだろう。

 

 

                                                                                                  ★★★★