遥実の手帳

フランス在住の筆者の(主に映画についての)エッセイ。

「万引き家族」、年末最後の映画鑑賞。

 感謝。まずはこの一言をこの映画に捧げたい。

現代日本映画砂漠における一つの希望、僥倖、稀有、そして金の棕櫚(パルムドール)を我々にもたらしたこの映画の奇跡、そしてまた、自分の偏狭な映画的理解をひっくり返してもらえたことに感謝。

普段の私の映画の判断基準フィルターの一つは、一人のシネアストのエゴイスティックな芸術的感性、いかにしてそれが映画の「枠」として表現されているかと言う演出(ミゾンセーヌ)のフォルマリスト的観点なのだが、この映画にはむしろ己を見てと言わんばかりの芸術家が持つデモンストレーション的エゴイズムが、三つ星料理店の一品にケチャップをブチまけるかのような、また、ラーメンのスープをすする前から胡椒をその上にかけるような野暮な行為だということを私に教えてくれた。一瞥して容易に識別可能な映画作家の個々の様式(スタイル)は、あまりにも目立ちすぎるために画面上に霞のように覆い被さり、ただ「」の面白さだけを誇張する。テレンス・マリックがまさにこれの凡例だ。端的に言って、作家映画の大半は演出過多なのだ。この映画における一見すると演出の不在にも思えるナチュラリスト的態度は、画面上に現れる俳優たちの生き生きとした佇まいを濁しているそれらの事実を私に伝えてくれた。安藤サクラのふっくらした柔らかな身体から出る優しさ、リリー・フランキーの照れ顔、子役二人のよちよちとした足どり、そして何より死神が生の返済期限を告げに来た事をその身をただレンズの前に晒すだけで表現した浜辺での樹木希林の顔、これらがただ是枝の映画装置の前にあった。ただ一つ、安藤サクラが佐々木みゆ演ずる《娘》の服を一斗缶で焼く際の、背景にいる他の俳優たちが不自然に動かないという人工性が目についてしまった。完璧なものほど瑕疵を探してしまうのは、幼い頃から叩き込まれた失敗をしてはいけない減点方式の教育のせいだろう。

 

この映画はとある貧困状況を描きながら、我々を我々の語句の貧困さに直面させる。劇中、リリー・フランキーはしきりに自分の名前を与えた祥太(城桧吏)に《父》と呼んでくれと照れながらせがむが、その言葉が発音されることは最後までなかった。リリー・フランキーは商店街の中でコロッケ片手に祥太に父ちゃんと言ってみろとけしかけるが、祥太は口ごもる。彼はその言葉を言いたくないのではない、言えないのだ。私たちの言葉では、彼らの関係を単に「父」と「子」で叙述できないという事を彼は直感的に知っているのだ。かつて日本語に今日意味するような「友達」が存在しなかったように、無縁社会ニッポンに生まれつつある新たな「縁」たちに直面する時、私たちの言葉はあまりにも無力だ。そして、映画だけが特権的に現実を素朴に捉えるだけでこの関係性を描けるのだ。確かに、冷たい言葉で言えば「保護者」とか「父兄」などの訳のわからない語句がある。しかし、この映画で描かれた「縁」にはどれも適切ではない。この映画の大人達は行政上は保護者ではないし、子供達との間には血縁もない。我々が簡単に言い表せらるような関係性は旧い時代と共に亡くなった。そして、他の絆のあり方をこの映画は提示した。

 

一つ疑問がある。万引き家族を日本の恥と評した人たちは実際に作品を観たのだろうか。まともな人間的感性を持ったニンゲンならそんな言葉は口に出てこないはずなので、きっと、彼らは観ていないか、我われの営みを理解しない遊星から来た物体なのだろう。

 

 

                                                                                                  ★★★★